菁々塾は,西谷淇水(1824~91)が開設した私塾。淇水は,江戸中期より手跡指南所篤志軒を営む西谷家の8代目であった。慶応3(1867)年・翌明治元年に小学校設立を建言。明治2(1869)年京都市中に64の小学校が開設されたが,それは寺子屋などの私塾を基礎としたものであり,菁々塾もその一つで下京第四番組小学校(日彰小学校)に発展した。この石標は菁々塾の跡を示すものである。 Leer más.
長州藩邸は幕末には尊王攘夷運動の拠点となり,元治元(1864)年禁門の変で焼失した。鳥羽伏見戦(1868)の後,その焼け跡は征東に赴く長州兵の調練場となった。この石標はその藩邸跡を示すものである。 Leer más.
山脇東洋(1705~62)は,山脇玄修(1654~1727)に医学を学び,その養子となった。六角大宮にあった六角牢獄で宝暦4(1754)年,男の刑死人の解剖を行い,実地について人体構造を観察した。著書にこの時の解剖記録『臓志』がある。解剖された刑死人の供養碑が,誓願寺の墓地に建てられた。この石標はその供養碑の所在を示すものである。なお,現在の供養碑は複製で,原碑は京都大学総合博物館に寄附された。 Leer más.
島津製作所は,島津源蔵(初代,1839~94)が設立した精密機器の総合メーカー。源蔵は仏具製造業者の次男として生まれ鍛冶工をしていたが,明治8(1875)年にこの地で島津製作所を設立した。明治11年に舎密局にワグネルが招かれると,源蔵は府知事槙村正直の指示によりワグネルに師事し,理化学器械の製造販売を始めた。この碑はその創業地に源蔵の生誕百年を記念して建立されたものである。 Leer más.
維新の指導的政治家であった木戸孝允(1833~77)は明治政府高官となり,鴨川畔の近衛家邸を買い取り京都別邸とした。明治10(1877年)5月19日,京都別邸で危篤に陥った木戸を京都滞在中の明治天皇が見舞いに訪れたが,木戸は同月26日に死去。この邸には孝允没後その子忠太郎が住み,昭和18(1943)年京都市に寄贈され,現在は市職員厚生施設となっていて, Leer más.
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。2月2日勧業場を視察。勧業場とは,遷都後の産業振興をはかるため,明治4(1871)年府が長州藩邸跡に設置した産業振興の中枢機関で,商工業に関する事務・特産品の陳列 Leer más.
日本最初の駅伝競争は,大正6(1917)年4月27日から3日間にわたり開催された,奠都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」である。その競争区間は,京都・三条大橋~東京・上野不忍池の博覧会正面玄関の508kmを,23区間に分けたものであった。この石標は,そのスタート地点として駅伝の歴史の始まりの地となった三条大橋を示すものである。 Leer más.
【まなべあきかつぐうきょあと】間部詮勝(1802~84)は越前鯖江藩主で,寺社奉行・大坂城代・京都所司代を歴任して老中となった。水野忠邦(1794~1851)と合わず引退するが,井伊直弼(1815~60)により再度老中に登用され,将軍後継問題・安政五カ国条約締結などにあたる一方尊王攘夷派を弾圧した。安政5(1858)年9月,幕府が調 Leer más.
高瀬川は,江戸初期の豪商角倉了以(1554~1614)素庵(1571~1632)父子によって開鑿され,京都の経済に重要な役割を果たした。高瀬川の舟入(船入)は荷物の積み下ろしと船の方向転換の場所で,古地図などによれば開鑿当初は二条~四条間に7か所作られ,17世紀末には9か所に増え,江戸時代中期には再度7か所に減少した。現在は一之船入だけが残る。 Leer más.
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。2月2日中学校・女学校・女紅場を視察。織工場では織機・綴れ織・機械の縫い方・西洋仕立等を一覧。この石標は織工場の跡を示すものである。 Leer más.
【おざわろあんたくあと】歌人小沢蘆庵(1723~1801)は,大坂生まれ。上洛して鷹司家に出仕した。和歌を冷泉為村(1712~74)に学ぶが破門される。香川景樹(1768~1843)らを指導し,澄月(1714~98),伴蒿蹊(1733~1806),慈延(1748~1805)とともに京都歌壇の四天王と称された。京都ではたびたび居を移したが,晩年は岡崎で過ごした。この石標はその邸宅跡を示すものである。 Leer más.
高瀬川は,江戸初期の豪商角倉了以(1554~1614)素庵(1571~1632)父子によって開鑿され,京都の経済に重要な役割を果たした。高瀬川の舟入(船入)は荷物の積み下ろしと船の方向転換の場所で,古地図などによれば開鑿当初は二条~四条間に7か所作られ,17世紀末には9か所に増え,江戸時代中期には再度7か所に減少した。 Leer más.
高瀬川は,江戸初期の豪商角倉了以(1554~1614)素庵(1571~1632)父子によって開鑿され,京都の経済に重要な役割を果たした。高瀬川の舟入(船入)は荷物の積み下ろしと船の方向転換の場所で,古地図などによれば開鑿当初は二条~四条間に7か所作られ,17世紀末には9か所に増え,江戸時代中期には再度7か所に減少した。 Leer más.
元治元(1864)年6月5日に起きた池田屋事件で死亡した尊攘派の遺骸は,縄手三条下る東側の三縁寺に葬られた。三縁寺は昭和54年に京阪三条駅前開発にともない,左京区岩倉花園町に移転し,旧境内に建てられていた宮部鼎蔵・松田重助の墓をはじめとする池田屋事件死没者の墓と碑も同所に移された。この碑は三縁寺の旧地を示すものである。 Leer más.
加賀藩前田家の藩邸は,天明8(1788)年焼失し,その後再築された。慶応2(1866)年,鳥羽伏見の戦に出兵したが,幕軍の敗北を知り引き返した。戊辰戦争には官軍につき北越で戦った。藩邸は明治維新後は上地され,一時は府知事邸となっていたが,太平洋戦争末期に建物疎開で御池通の一部となった。この石標は加賀藩邸の跡を示すものである。 Leer más.
【おかざきじんじゃおたびしょあと】岡崎神社は牛頭天王を祀る神社で,西天王社に対して東天王社と呼ばれる。はじめ北白川にあったが,貞観11(869)年この地に移った。 Leer más.
武市瑞山(1829~65)は,土佐藩郷士で江戸に学び尊王攘夷を志し,土佐勤王党を結成した。藩内の主流であった公武合体派を退け藩論を尊王攘夷に導いた。文久2(1862)年山内容堂(1827~72)に従って上洛し,この地に住んで応接役として各藩士と交わった。翌年京都留守居役となるが,8月18日の政変以後,尊王攘夷派は弾圧され,9 Leer más.
【ひょうぶだゆうおおむらますじろうこういし】周防国出身の大村益次郎(村田蔵六,1825~69)は,緒方洪庵等に医・蘭学を学んだ後,江戸に出て幕府の講武所教授等を歴任した。のち長州藩に仕え軍制改革を指導した。農民や町人の兵式訓練の必要を説き,第2次長州征伐・戊辰戦争において卓越した指揮を行った。新政府では兵部 Leer más.
御池通にかかる橋のやや下流,川を横切るように三個の四角柱が並ぶ。左右両岸の石には「コ」中央の石には「H」型の溝がある。一辺は約15cmで,高瀬船往来のため木の板をはめ込んで水位を調節した堰止めの石である。高瀬舟は荷を満載すれば沈むため,堰で水位を上げることで舟底をこすらずに通り抜けることができた。この石標は高瀬川の水の堰止め石を示すものである。 Leer más.
【さかもとりょうまつまおりょうじっかならざきけあと】柳馬場三条下ルのこの付は,のちの坂本龍馬の妻お龍(鞆)の実家跡です。お龍は,青蓮院宮に仕える内・外科医,楢崎将作の長女です。天保12年(1841)に富小路六角付近で誕生し,しばらくしてこの地に移り住んだと思われます。お龍には,父母のほか,弟妹が4人もおりましたが,家事を任されることもなく,華道,香道,茶道などのおけいこごとに専念できたようです。 Leer más.
藤原定家(1162~1241)京極邸は平安京左京二条四坊十三町にあったと伝える。その邸地より,定家は京極中納言と称された。九条家に出入りし良経(1169~1206)や慈円(1155~1225)の知遇を受け,後鳥羽院(1180~1239)に見出されその歌風を大成させた。治承4(1180)~嘉禎元(1235)年に及ぶ日記『明月記』を残す。その墨蹟も「定家 Leer más.
維新の指導的政治家であった木戸孝允(1833~77)は明治政府高官となり,鴨川畔の近衛家邸を買い取り京都別邸とした。明治10(1877年)5月19日,京都別邸で危篤に陥った木戸を京都滞在中の明治天皇が見舞いに訪れたが,木戸は同月26日に死去。この邸には孝允没後その子忠太郎が住み,昭和18(1943)年京都市に寄贈され,現在は市職員厚生施設となっていて, Leer más.
手島堵庵(1718~86)は,石田梅岩直門の最年少だったが,師や兄弟子の没後,門下の組織的改革や教化法の改善を進め,講舎五楽舎を開設して石門心学の普及に努めた。長男手島和庵(1747~91)が五楽舎を受け継いた。この石標は手島堵庵の五楽舎の跡を示すものである。 Leer más.
高瀬川は,江戸初期の豪商角倉了以(1554~1614)素庵(1571~1632)父子によって開鑿され,京都の経済に重要な役割を果たした。高瀬川の舟入(船入)は荷物の積み下ろしと船の方向転換の場所で,古地図などによれば開鑿当初は二条~四条間に7か所作られ,17世紀末には9か所に増え,江戸時代中期には再度7か所に減少した。現在は一之船入だけが残る。 Leer más.
辨慶石はこの石標の横に置かれている石。石標に示す『山州名跡志』巻十七には,弁慶の愛した石で,弁慶の死後奥州にあったが,京都の三条京極へ行きたいと声を発したので,この地に移したと記す。しばらく新京極の誓願寺に預けられていたが,明治26(1893)年にこの地に戻り民家内に置かれ,昭和4年に三条通沿いの現在地に移 Leer más.
角倉了以(1554~1614)は,国内諸河川の開発整備に従事し,慶長11(1606)年に大堰川・淀川・富士川を疎通させた。慶長16(1611)年この地二条より鴨川の水を引き伏見に達する高瀬川を開削し,京都伏見間の水運を開通させた。明治維新後,角倉家は高瀬川支配を罷免され,府に移管された。この辺り一帯は角倉家の邸地であった。この石標はその跡を示すものである。 Leer más.
維新の指導的政治家であった木戸孝允(1833~77)は明治政府高官となり,鴨川畔の近衛家邸を買い取り京都別邸とした。明治10(1877年)5月19日,京都別邸で危篤に陥った木戸を京都滞在中の明治天皇が見舞いに訪れたが,木戸は同月26日に死去。この邸には孝允没後その子忠太郎が住み,昭和18(1943)年京都市に寄贈され, Leer más.
(※碑は『舩』)高瀬川は,江戸初期の豪商角倉了以(1554~1614)素庵(1571~1632)父子によって開鑿され,京都の経済に重要な役割を果たした。高瀬川の船入は二条~四条間に9カ所作られ,荷物の積み下ろしと船の方向転換の場所であった。この石標は高瀬川一之船入の跡を示すものである。昭和9年に史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定され,現在は「高瀬川一之船入」として国指定史跡。 Leer más.
慶応3(1867)年11月15日夜,この地近江屋を襲った刺客により,海援隊長坂本龍馬(1836~67)・陸援隊長中岡慎太郎(1838~67)は暗殺された。ともに土佐藩出身で薩長連合の功労者であり,大政奉還がなり維新の諸改革を前にしての最期だった。この石標は両人が暗殺された近江屋の跡を示すものである。 Leer más.
出雲阿国(生没年未詳)は,出雲大社巫女と称し神歌や小唄を歌い,それに伴う踊りを踊った。天正10(1582)年奈良春日社若宮拝殿でややこ踊りを演じたとあるのが初見。慶長8(1603)年京都で念仏踊りを始め,簡単な所作を加えた阿国歌舞伎を創始。五条河原や北野社境内勧進能の舞台跡を借用して筵張りの囲いで上演した。この石標 Leer más.
一条革堂は,平安京左京北辺の一条油小路北に所在した天台宗の寺院で行願寺という。寛弘元(1004)年行円(生没年未詳)の創建。行円が,寒暑を問わず鹿皮の服を身に着け,遊行したことから皮聖と呼ばれ,行願寺も革堂・皮聖寺の名で知られる。創建に際して寺額は藤原行成が書いた。中世の兵乱期に寺町今出川に移り,三転して現在地に移った。この石標は一条革堂が,元来一条油小路上るにあったことを示すものである。 Leer más.
【かつらこごろう・いくまつぐうきょあと】木戸孝允(1833~77)は,桂小五郎といった長州藩士時代,花街三本木の芸妓幾松と恋仲となり,時に新選組に追われながら苦難の時代を過ごした。両人は鴨川西岸に住み,蛤御門の変のあとには新選組に追われて,幾松の機転で助かったこともあると伝える。幾松は維新後木戸公夫人松子となり,明治10(1877)年夫を亡くした松子は剃髪して翠香院と号し京都に住まいし, Leer más.
小川亭は,肥後藩御用達「魚卯」の未亡人ていと姑りせが共に開いた旅館。幕末肥後藩士ほか勤王の志士たちに利用され,二人は志士の面倒をよく見たという。大正9(1920)年に廃業し,家屋は第2次世界大戦時の強制疎開で取り壊された。この石標は小川亭の跡を示すものである。 Leer más.
平安時代中期の武将・源義家(1039~1106)は,石清水八幡宮で元服したことにより「八幡太郎」と称ばれた。父は源頼義(988~1075),母は鎮守府将軍・平直方の娘である。頼義は左女牛西洞院に邸宅を構え,この邸宅は義家も用いている。 この石標は,源義家が誕生した源頼義の館跡を示すものである。 Leer más.
角倉了以(1554~1614)は,国内諸河川の開発整備に従事し,慶長11(1606)年に大堰川・淀川・富士川を疎通させた。慶長16(1611)年この地二条より鴨川の水を引き伏見に達する高瀬川を開削し,京都伏見間の水運を開通させた。明治維新後,角倉家は高瀬川支配を罷免され,府に移管された。この辺り一帯は角倉家の邸地であった。この石標はその跡を示すものである。 Leer más.
寛文8(1668)年京都町奉行が創設され,京都所司代等の司法・行政の権限が委譲された。町奉行所は東西に分けられ隔月交代で任務を担当した。西町奉行所は千本通二条城西側に建てられた。この石標はその跡を示すものである。 Leer más.
大学寮は,平安時代の高等教育機関で式部省の管轄下にあり,大学頭以下の事務官,博士以下の教官,学生から成り立っていた。最盛期は菅原・大江氏に代表される平安時代前期で,後期には漸次衰退し,治承元(1177)年の大火で焼失した。この石標はその跡を示すものである。 Leer más.
二条城西南櫓の下300坪の土地に,明治43(1910)年横田永之助(1872~1943)の横田商会により京都初の撮影所が開設された。この地で日本映画の父と言われる牧野省三(1878~1929)が尾上松之助(1876~1926)とコンビを組み,最初の作品「忠臣蔵」を撮影した。法華堂撮影所(上京区御前通一条下る)ができるまで2年間使われた。この石標は二条城撮影所の跡を示すものである。 Leer más.
神泉苑は,平安京造営の際の禁苑。延暦19(800)年,桓武天皇(737~806)の行幸記事が初見。当時は二条・三条大路間の南北4町,大宮・壬生大路間の東西2町を占めた。歴代天皇が行幸したが,貞観5(863)年御霊会が催されるなど祈雨の霊場として使われた。中世以後荒廃。平成2~5年にかけて実施された地下鉄東西線建設に伴う発掘調査により,平安京造営当時の神泉苑の東西幅が確認された。 Leer más.
神泉苑は,平安京造営の際の禁苑。延暦19(800)年,桓武天皇(737~806)の行幸記事が初見。当時は二条・三条大路間の南北4町,大宮・壬生大路間の東西2町を占めた。歴代天皇が行幸したが,貞観5(863)年御霊会が催されるなど祈雨の霊場として使われた。中世以後荒廃。平成2~5年にかけて実施された地下鉄東西線建設に伴う発掘調査により,平安京造営当時の神泉苑の東西幅が確認された。 Leer más.
越前福井藩は,家康の子結城(松平)秀康(1574~1607)を祖とする松平氏が治めた。この地に藩邸が置かれたのは比較的新しく,天保2(1831)年の絵図に描かれるのが早い例である。幕末の藩主松平春嶽(1828~90)は,人材を登用し藩政改革を断行し,公武合体派の中心として幕末の京都で活躍した。この石標はその藩邸の跡を示すものである。 Leer más.
橋本左内(1834~59)は,福井藩出身で父は藩医であった。大坂で緒方洪庵(1810~63)に医学洋学を学んだ後,江戸に出てさらに蘭学医学を学んだ。藩主松平春嶽(1828~90)に認められ藩医・御書院番・藩校学監となり,藩政改革に尽力した。将軍継嗣問題で藩主を助け一橋慶喜擁立を周旋したことを罪に問われ,安政の大獄で斬首に処 Leer más.
坂本龍馬(1836~67)は土佐藩郷士の家に生まれ,武市瑞山(1829~65)の土佐勤王党に入った。のち脱藩し,江戸に出て軍艦奉行勝海舟(1823~99)の門に入った。慶応2(1866)年薩長同盟締結を仲介し,倒幕派の結集に成功した。京都滞在中は,この地材木商酢屋(中川嘉兵衛方)に投宿し,ここを海援隊屯所とした。この石標は坂本龍馬寓居の中川家の地を示すものである。 Leer más.
彦根藩主井伊家は,譜代の雄藩で度々幕政に参与した。安政5(1858)年大老になった13代井伊直弼(1815~60)は,勅許を待たず日米修好通商条約をはじめとする安政五カ国条約に調印した。将軍後継問題での一橋派や尊王攘夷派志士の非難活動を押さえるため安政の大獄を起こし桜田門外の変で暗殺された。変後10万石を削られるが廃 Leer más.
京都市立堀川高等学校専修夜間部は,戦前からのその母体として市立商工補習(夜)学校(明治45年創立)・市立商工専修学校(明治45年創立)・市立専修高等学校(昭和10年開校)が石標に記されている。昭和23(1948)年,新学制による高校再編成で市立堀川高等学校が創設され,夜間部が設置されたが,昭和54(1979)に廃止された。この石標は京都市立堀川高等学校専修夜間部の跡を示すものである。 Leer más.
日本最初の電気鉄道である京都電気鉄道株式会社の伏見線は,明治28(1895)年に開業し,この地を起点として伏見町下油掛までの約6kmを走った。この石標は,電気鉄道事業発祥地として伏見線起点を示すものである。 Leer más.
【ちんぜいしょうこうしょうにんいしょう】筑前国出身の聖光(1162~1238)は,鎮西上人とも称された。上洛して法然(1133~1212)に会い,浄土宗の教えを継承して建久8(1197)年この地に聖光寺を建立した。この石標は上人の遺跡聖光寺を示すものである。 Leer más.
社伝によると錦天満宮(祭神菅原道真)は、長保年間(999-1004)歓喜寺の鎮守として創建。豊臣秀吉が現在地の錦小路東端に移したのが社名になる。当社の石の明神鳥居は、新京極通から錦小路に入ってすぐにあるが、笠木・島木と貫ぬきが両側の民家に突き刺さっているように見える。 Leer más.
高瀬川は,江戸初期の豪商角倉了以(1554~1614)素庵(1571~1632)父子によって開鑿され,京都の経済に重要な役割を果たした。高瀬川の舟入(船入)は荷物の積み下ろしと船の方向転換の場所で,古地図などによれば開鑿当初は二条~四条間に7か所作られ,17世紀末には9か所に増え,江戸時代中期には再度7か所に減少した。現在は Leer más.
佐久間象山(1811~64)は,信濃国松代藩出身で兵学蘭学を学び,江戸で勝海舟・吉田松陰等に砲学を教えた。開国論を唱え,嘉永7(1854)年吉田松陰の米艦乗込事件に連座し,その後8年間松代で蟄居した。元治元(1864)年3月幕命で上京し,開国論を披瀝した。同年7月11日騎馬で山階宮家よりの帰途,この地で暗殺された。この石標は佐久間象山が襲撃された地を示すものである。 Leer más.
粟田口は,三条通の白川橋以東,蹴上附近までの地名。平安遷都以前から粟田郷と呼ばれ粟田氏が本拠としていた。遷都後は,東海・東山・北陸三道から京都への入口として交通の要衝となった。京の七口の一つで,三条口・三条橋口・大津口ともいわれた。近世には,東海道五十三次の終点近くとして賑わった。平安末期以来この附 Leer más.
明智光秀(1528~82)は,天正10(1582)の本能寺の変後,羽柴(豊臣)秀吉(1536~98)と山崎に戦って敗れ,山科小栗栖で殺された。その首は粟田口附近に埋められ,その上に塚が築かれた。この塚に建てられた五重の石塔がのち現在地に移されたという。現在は五重石塔が明智光秀首塚として知られる。この石標は五輪塔のかたわらに建 Leer más.
【なかいしょうごろうじゅんなんち】十津川郷士中井正五郎(1847~67)は,上洛後,尊譲派と親交があり,坂本龍馬(1836~67)・中岡慎太郎(1838~67)を敬愛したという。坂本・中岡暗殺の首謀者とみなされた紀州藩士三浦休太郎(1828~1910)を,この地にあった旅亭天満屋に襲撃し,護衛の新選組と戦って倒れた。この石標は中井正五郎終焉の地を示すものである。 Leer más.
尚徳諏訪神社は、桓武天皇から蝦夷平定のために征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂が、かねてより長野の諏訪大明神を深く信仰しており、そのおかげで無事に蝦夷を平定できたことから延暦20年(801年)に諏訪大社から祭神を勧請(かんじょう)したのが始まり。 Leer más.
この地には明治2(1869)年に下京十六番組小学校が開校し,のち尚徳小学校と改められた。戦後は尚徳中学校となったが,平成19年3月に下京中学校に統合された。この碑は尚徳中学校を記念するものである。 Leer más.
【あいづはんじゅんなんしゃぼしょ】会津藩主松平容保(1835~93)が文久2(1862)年京都守護職に任命されると,その本拠地となった黒谷金戒光明寺周辺には,会津藩士が分宿した。この石標は,慶応4(1868)年正月鳥羽・伏見の戦いなど,文久年間以来の会津藩士戦没者の墓所を示すものである。 Leer más.
「是より洛中荷馬口付のもの乗へからす(乗るべからず)」と刻む。荷を載せた馬は,馬の口取り(馬子)が手綱を引いて歩くが,時には馬に乗ることもあったので,馬に乗ったままで洛中へ入ってはならないという意味である。元禄8(1695)年に京都市街地を取り囲む30カ所に木杭を定置したが,朽ち損じたので享保2(1717)年石に作り替えたという。現在,同じ字体の同じ石標を京都市内に10本余り確認することができる。 Leer más.
【もちづきぎょくせんきょじゅうち】望月玉泉(1834~1913)は,幕末から明治期の画家である。望月玉蟾(1692~1755)を祖とする望月派の四代目。幸野楳嶺(1844~95)と共に京都府画学校の創設に参加し,京都画壇の復興に努めた。父・玉川に画を学び,四条派と岸駒(1749~1838)に始まる岸派の画法を折衷し,写生を基調とする温和な画風を形成した。この石標はその邸宅跡を示すものである。 Leer más.
少将井は『枕草子』にもでる。この地の邸宅もそれに因んで「少将井(少将院・少将井殿)」の名で呼ばれた。もと惟喬親王(844~97)の小野宮の附属地で,右大臣藤原実資(957~1046)に伝領された。その頃すでに泉は有名で近辺の人々も水を汲みにきていたという。やがて祠が建てられ,少将井社と呼ばれるようになった。少将井を示す石標は,近年まで建っていたが現在は確認できない。 Leer más.
【おおいのみかどまでのこうじどのあと】大炊御門万里小路殿は,平安京左京二条四坊十一町にあった但馬守源高房(?~1077)の邸宅。後三条天皇(1034~73)は,延久5(1073)年病を得てこの邸に行幸,この地で崩御した。のちに中納言源能俊(1071~1137)の領となり,白河法皇(1053~1129)は仮の御所とした。鎌倉末期には里内裏として度々利用された。この石標はその跡を示すものである。 Leer más.
横井小楠(1809~69)は,熊本藩出身で江戸で朱子学を学んだが,安政の頃には開国論者となった。藩政改革に失敗するが福井藩に招かれ改革を指導した。藩主松平春嶽(1828~90)が政治総裁職につくとこれを助けて公武合体運動を推進した。失脚後帰国したが,新政府の参与として出仕した。明治2(1869)年正月5日,御所参賀の帰途この地で暗殺された。この石標は横井小楠が襲撃された地を示すものである。 Leer más.
富有小学校は,明治2(1869)年10月16日上京第二十二番組小学校として二条富小路上るの地に開校。明治8(1875)年校舎増築と同時に坐教を廃して椅子を使用し,校名を富有小学校と改めた。創設時の校地が富小路殿跡であったことから富の字を採り,宋の蘇東坡の詩より「富有」と命名。明治24(1891)年旧小倉藩邸跡の現在地に新築移 Leer más.
二条殿は,南北朝時代太政大臣を務め,和歌連歌で著名な二条良基(1320~88)の邸宅で,押小路殿とも呼ばれた。室町時代の洛中洛外図屏風に描かれる。邸内には龍躍池があり,その景観の美しさから皇族や織田信長(1534~82)が好んだ。信長は天正5(1577)年に移り住み,天正7年正親町天皇皇太子誠仁親王に献上した。天正10(1573 Leer más.
金座は江戸幕府の金貨(小判・一分判)鋳造所。烏丸通の西,二条通と三条通間の両替町にあった。その成立は慶長年間(1596~1615)に堺・大坂・伏見から金屋・金吹きをこの地に集めたことによる。幕府御用達商人筆頭の後藤庄三郎が金座の御用改係をつとめ,役所が置かれた。寛政の改革(1800)以後京都での小判の鋳造は行われず, Leer más.
銀座は江戸幕府の銀貨(丁銀・小玉銀)鋳造所。慶長6(1601)年伏見に町屋敷4町を拝領してつくられたのが最初で,同13(1608)年伏見から京都の烏丸通の西,二条通と三条通間の両替町に移した。寛政の改革(1800)以後京都では銀貨幣の鋳造は行われず,銀道具・銀箔材料としての南鐐の売り渡しを行うのみとなった。明治元(1868)年廃止。この石標は徳川時代銀座の跡を示すものである。 Leer más.
二条殿は,南北朝時代太政大臣を務め,和歌連歌で著名な二条良基(1320~88)の邸宅で,押小路殿とも呼ばれた。室町時代の洛中洛外図屏風に描かれる。邸内には龍躍池があり,その景観の美しさから皇族や織田信長(1534~82)が好んだ。信長は天正5(1577)年に移り住み,天正7年正親町天皇皇太子誠仁親王に献上した。天正10(1573 Leer más.
明治元(1868)年閏4月京都府が設置され,翌年には町組改正が行われ,上京33,下京32の65番組に分ち,番組毎に小学校が設立された。上京27番組では同年9月仮学舎で授業が開始され,翌年5月21日富小路御池角守山町に上京第二十七番組小学校として日本最初の小学校授業が行われた。明治6(1873)年にこの地に新築移転し,以後柳 Leer más.
国学者本居宣長(1730~1801)は宝暦2(1752)年から同7年まで京都に遊学し,堀景山(1688~1757)に儒学を,武川幸順(1725~80)に医学を学んだ。この石標は,堀・武川両名の塾跡を示すものである。 Leer más.
琵琶法師明石覚一(?~1371)は,平曲家の等級を整備し,当道座と呼ばれる盲人組織を確立した。覚一の邸宅を職屋敷と呼び,盲人の技芸試験・裁判・売官などが行われた。のち当道座は江戸幕府から保護を受け,全国盲人支配機関となるが,明治4(1871)年当道制度が廃止され,同屋敷も廃された。この石標は当道職屋敷跡を示すものである。 Leer más.
悪王子社は,素戔嗚尊を祀る神社と伝え,もともとは当地に祀られていた。しかし慶長元(1596)年に豊臣秀吉の命により四条通寺町の祇園御旅所に移され,さらに四条通大和大路角に移った後,明治10(1877)年に八坂神社境内の本殿東側に移転した。この石標は,悪王子社の跡を示すものである。 なお現在,当地周辺を元悪王子町というのはこれに由来している。 Leer más.
衣棚通りは南端、三条-六角間で道幅が狭まる。この通りを了頓図子と言う。(図子とは通り抜けが出来るよう袋小路を貫通させた通路。)安土桃山時代の茶人、廣野了頓の邸宅があったといわれる場所。廣野家は足利家代々の従臣であり将軍義輝のときにこの地を領有。了頓はここに茶亭を構え、茶道を広めた。豊臣秀吉、徳川家康らがここを訪れた。 Leer más.