明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。2月2日勧業場を視察。勧業場とは,遷都後の産業振興をはかるため,明治4(1871)年府が長州藩邸跡に設置した産業振興の中枢機関で,商工業に関する事務・特産品の陳列 Leer más.
維新の指導的政治家であった木戸孝允(1833~77)は明治政府高官となり,鴨川畔の近衛家邸を買い取り京都別邸とした。明治10(1877年)5月19日,京都別邸で危篤に陥った木戸を京都滞在中の明治天皇が見舞いに訪れたが,木戸は同月26日に死去。この邸には孝允没後その子忠太郎が住み,昭和18(1943)年京都市に寄贈され,現在は市職員厚生施設となっていて, Leer más.
【もちづきぎょくせんきょじゅうち】望月玉泉(1834~1913)は,幕末から明治期の画家である。望月玉蟾(1692~1755)を祖とする望月派の四代目。幸野楳嶺(1844~95)と共に京都府画学校の創設に参加し,京都画壇の復興に努めた。父・玉川に画を学び,四条派と岸駒(1749~1838)に始まる岸派の画法を折衷し,写生を基調とする温和な画風を形成した。この石標はその邸宅跡を示すものである。 Leer más.
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。その折5月には下京十八組(修徳)小学校,6月28日には上京二十九組(初音)小学校・下京二十四組(尚徳)小学校の各小学校に上京下京の生徒を集めて授業を視察。この石標は上京二十九組小学校の跡を示すものである。 Leer más.
【ひょうぶだゆうおおむらますじろうこういし】周防国出身の大村益次郎(村田蔵六,1825~69)は,緒方洪庵等に医・蘭学を学んだ後,江戸に出て幕府の講武所教授等を歴任した。のち長州藩に仕え軍制改革を指導した。農民や町人の兵式訓練の必要を説き,第2次長州征伐・戊辰戦争において卓越した指揮を行った。新政府では兵部 Leer más.
京都市立堀川高等学校専修夜間部は,戦前からのその母体として市立商工補習(夜)学校(明治45年創立)・市立商工専修学校(明治45年創立)・市立専修高等学校(昭和10年開校)が石標に記されている。昭和23(1948)年,新学制による高校再編成で市立堀川高等学校が創設され,夜間部が設置されたが,昭和54(1979)に廃止された。この石標は京都市立堀川高等学校専修夜間部の跡を示すものである。 Leer más.
二条城西南櫓の下300坪の土地に,明治43(1910)年横田永之助(1872~1943)の横田商会により京都初の撮影所が開設された。この地で日本映画の父と言われる牧野省三(1878~1929)が尾上松之助(1876~1926)とコンビを組み,最初の作品「忠臣蔵」を撮影した。法華堂撮影所(上京区御前通一条下る)ができるまで2年間使われた。この石標は二条城撮影所の跡を示すものである。 Leer más.
富有小学校は,明治2(1869)年10月16日上京第二十二番組小学校として二条富小路上るの地に開校。明治8(1875)年校舎増築と同時に坐教を廃して椅子を使用し,校名を富有小学校と改めた。創設時の校地が富小路殿跡であったことから富の字を採り,宋の蘇東坡の詩より「富有」と命名。明治24(1891)年旧小倉藩邸跡の現在地に新築移 Leer más.
明治元(1868)年閏4月京都府が設置され,翌年には町組改正が行われ,上京33,下京32の65番組に分ち,番組毎に小学校が設立された。上京27番組では同年9月仮学舎で授業が開始され,翌年5月21日富小路御池角守山町に上京第二十七番組小学校として日本最初の小学校授業が行われた。明治6(1873)年にこの地に新築移転し,以後柳 Leer más.
維新の指導的政治家であった木戸孝允(1833~77)は明治政府高官となり,鴨川畔の近衛家邸を買い取り京都別邸とした。明治10(1877年)5月19日,京都別邸で危篤に陥った木戸を京都滞在中の明治天皇が見舞いに訪れたが,木戸は同月26日に死去。この邸には孝允没後その子忠太郎が住み,昭和18(1943)年京都市に寄贈され, Leer más.
維新の指導的政治家であった木戸孝允(1833~77)は明治政府高官となり,鴨川畔の近衛家邸を買い取り京都別邸とした。明治10(1877年)5月19日,京都別邸で危篤に陥った木戸を京都滞在中の明治天皇が見舞いに訪れたが,木戸は同月26日に死去。この邸には孝允没後その子忠太郎が住み,昭和18(1943)年京都市に寄贈され,現在は市職員厚生施設となっていて, Leer más.
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。2月2日中学校・女学校・女紅場を視察。織工場では織機・綴れ織・機械の縫い方・西洋仕立等を一覧。この石標は織工場の跡を示すものである。 Leer más.
島津製作所は,島津源蔵(初代,1839~94)が設立した精密機器の総合メーカー。源蔵は仏具製造業者の次男として生まれ鍛冶工をしていたが,明治8(1875)年にこの地で島津製作所を設立した。明治11年に舎密局にワグネルが招かれると,源蔵は府知事槙村正直の指示によりワグネルに師事し,理化学器械の製造販売を始めた。この碑はその創業地に源蔵の生誕百年を記念して建立されたものである。 Leer más.
この地には明治2(1869)年に下京十六番組小学校が開校し,のち尚徳小学校と改められた。戦後は尚徳中学校となったが,平成19年3月に下京中学校に統合された。この碑は尚徳中学校を記念するものである。 Leer más.
日本最初の電気鉄道である京都電気鉄道株式会社の伏見線は,明治28(1895)年に開業し,この地を起点として伏見町下油掛までの約6kmを走った。この石標は,電気鉄道事業発祥地として伏見線起点を示すものである。 Leer más.
横井小楠(1809~69)は,熊本藩出身で江戸で朱子学を学んだが,安政の頃には開国論者となった。藩政改革に失敗するが福井藩に招かれ改革を指導した。藩主松平春嶽(1828~90)が政治総裁職につくとこれを助けて公武合体運動を推進した。失脚後帰国したが,新政府の参与として出仕した。明治2(1869)年正月5日,御所参賀の帰途この地で暗殺された。この石標は横井小楠が襲撃された地を示すものである。 Leer más.
公開日は、3~7月と9~11月の毎週水・土曜(祝日は除く)と、11月29日の創立記念日などで、午前10時から午後4時。建物と調度品約60点が京都市有形文化財に指定されている。10人以上の団体は要予約。無料。 Leer más.
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日,2月16日~7月28日に滞在。2月3日,上下賀茂神社に行幸した。その帰途,天皇はこの地にあった田中四郎左衛門が経営する寒天工製造場に立ち寄り巡覧した。この石標は明治天皇ゆかりの寒天製造場跡を示すものである。 Leer más.
1919年施行された旧道路法、同法の施行令に基づき、当時の市町村に道路元標が設置された。これは、ほとんどが市町村役場の前か、市町村を通る主要な道路同士の交差点に置かれ、当時の市町村間の距離を示した。 京都市道路元標はもともと三条大橋にあったという説もあるが、当時の告示よりこの場所と断定できる。(”三条Walking”より) Leer más.
中沼了三(1816~96)は,隠岐出身の儒学者で,上洛して学び,師の鈴木恕平亡き後この地に学舎を開いた。勤皇家でたびたび投獄されたが屈せずに人材を育成した。維新後も教育者として活躍し,新政府軍の参謀・天皇の侍講・昌平黌教授等を勤めたが,上層と合わず官を辞した。この石標は中沼了三の塾跡を示すものである。 Leer más.
日彰小学校は,明治2(1869)年東洞院三条(現在の梅忠町)に下京区第四組小学校として開校した。明治5(1872)年旧松山藩邸のこの地を購入し,もとの山階宮別邸を移築して校舎とし,階松小学校と改称した。明治9(1876)年京都府知事槙村正直により日彰小学校と命名された。都心地域にあり児童数の減少が進行したため,平成5(1993 Leer más.
田儀兵衛(1832~93)は紀伊郡柳原町の名望家。私財を投じて貧民救済を行い,明治19(1886)年に流行したコレラの防疫活動にも尽力した。同22年,柳原町町長に選出された。この石標と石碑は,その業績を顕彰するものである。 Leer más.
明治33(1900)年4月京都府立簡易商業学校が京都商業学校内に開校した。翌年京都市に移管され京都市立簡易商業学校と改称。明治40(1907)年京都市立商業実修学校と改称。翌年この地に校舎を移転。その後昭和11(1936)年,右京区西院馬場町に新築移転して市立四条商業学校と改称された。昭和23(1948)年の新学制により商業学校は廃止となった。この石標は京都市立商業実修学校の跡を示すものである。 Leer más.
明治5(1872)年明治政府は,郵便事業開始に続いて全国的な電信網敷設に着手した。京都ではこの地に西京(さいきょう)電信局を設置した。電話は明治10(1877)年に輸入され,同21(1888)年官営の方針を決定し,同23年公衆電話事業が始まった。同29(1896)年京都電話交換局が設置され,翌30年5月に交換業務を開始した。 Leer más.
竹間小学校は明治2(1869)年上京第二十一番組小学校として創設された。平成5(1993)年,京都市立富有小学校と統合し,京都市立竹間富有小学校と改称。さらに平成7年に梅屋・龍池・春日小学校と共に統合し,富有小学校の地に御所南小学校ができた。 Leer más.
明治2(1869)年,新町通四条下る西側に開校した下京第九番組小学校は,同9年この地に移転し,成徳尋常小学校となった。昭和6(1931)年に下京区高辻通室町西入に移転し,同22年新学制のもと中学校となる。この石標は成徳小学校跡地を示すものである。 Leer más.
明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,京都には1月28日~2月6日,2月16日~7月28日に滞在。2月1日には,合薬会社を視察した。京都合薬会社(アポテーキ)は,京都の薬業界が設立した薬局で,医師の処方箋による調剤を行った。この石標はその合薬会社跡を示すものである。 Leer más.
【しまばらにしもんひ】島原は寛永17(1640)年六条柳町から移転した遊里。島原の入口は,当初は東の大門だけだったが,享保17(1732)年に西門が設けられ,天保13(1842)年,この地に大門が建てられた。近年まで島原の旧観を伝えていたが,昭和52(1977)と平成10(1998)年,2回の交通事故により西門は倒壊した。この石標は島原西門跡を示すものである。 Leer más.
【かぶれんじょうあときねんひ】島原は,京都で唯一の幕府公認の遊里。島原歌舞練場は,当初は島原女紅場といい,芸娼妓に刺繍・裁縫などを教え,遊里を離れても仕事ができることを目指して,明治6年(1873)に設立された教育・勧業施設である。その後,教育内容に変化があったが,昭和2年(1927)にこの地に新築・移転し,本格的な劇場施設となった。 Leer más.
愛宕念仏寺は,醍醐天皇(885~930)勅願で,延喜11(911)年伝燈大法師千観(918~83)の開基。千観は空也(903~72)の教えを受けて熱心に念仏を進め,念仏上人とも呼ばれたので念仏寺の称が生じたとする。天台宗延暦寺派で,本尊は千手観音。大正11(1922)年右京区嵯峨鳥居本に移転した。この石標は愛宕念仏寺の旧地を示すもので Leer más.
【もりかんさいたくあと】森寛斎(1814~94)は,長州出身の画家。森徹山(1775~1841)に師事し円山派の画法を学ぶ一方で討幕運動にも参加した。維新後は京都画壇の研究団体如雲社の経営に努め,画壇の復興に寄与し,この地で没した。この石標はその邸宅跡を示すもので,寛斎に師事した山元春挙等の寄附で建立されたものである。 Leer más.
【こうのばいれいせいたんち】画家幸野楳嶺(1844~95)は,円山派・四条派さらに南画を学び,明治13(1880)年田能村直入(1814~1907)らとともに京都府立画学校を設立した。のち青年絵画共進会を作り竹内栖鳳(1864~1942)らを育てた。この石標は楳嶺生誕の地を示すものである。 Leer más.
明治5(1872)年に発布された学制のもと,幼児のための教育施設が幼稚小学という名称で制度化された。京都においても同21年までに10の小学校内に設置された。この石標は,同21年豊園小学校内に設立された豊園幼稚園を示すものである。平成4(1992)年豊園小学校の統合とともに閉園。 Leer más.
【ほうえんしょうがっこうのひ】豊園小学校は明治2(1869)年,下京第十番組小学校として開校し,同8年に豊園小学校と称した。この地は豊臣秀吉(1536~98)の別荘竜臥城の跡地で,秀吉が茶の湯に使ったと伝えられる邸内の井戸豊園水に因んだ命名。平成4(1992)年に格致・開智・有隣・修得と統合され,豊園小学校の地に洛央小学校が開校した。この石標は統合前の豊園小学校を示すものである。 Leer más.
豊臣秀吉が茶の湯に愛用したと伝わる「豊園水」。この水がわき出す井戸はもともと、秀吉の別邸・龍臥城の敷地内にあった。町衆が明治初期に建てた旧豊園小の敷地内で地域によって守られてきたが、約四十年前に地下工事の影響などで枯れ、二年前に跡地にある洛央小が復元した。 Leer más.
江戸時代後期の名医荻野元凱がこの地で医院を開業。その建物をそのままに、大正15年豪商井上利助が最新のライト様式の洋間を加えて新設した。和室部分は数寄屋の名工:上坂浅次郎が設計、一階洋間は京都工芸繊維大学・京都大学教授を務めた建築家、武田五一がフランク・ロイド・ライトの建築を参考にして設計、旧帝国ホテルと同様の外壁の石灰岩とタイルが貼られている。濠天井に寄せ木の貼り床、電熱式暖炉を設け、 Leer más.
【めいじてんのうごこやすみどころほんがんじきゅうだいきょうこう】明治13(1880)年7月20日,京都府巡幸中の明治天皇は七条停車場(京都駅)から神戸へ向かったが,その前に本願寺(西本願寺)大教校で休憩した。本願寺大教校は現龍谷大学の前身で,前年に開校したばかりで,天皇は講堂(現龍谷大学本館)などを視察した。この石標は明治天皇が休憩した本願寺大教校を示すものである。 Leer más.
下京の西本願寺周辺では,五条通と七条通の間に東西を横断する道路がなかったので,住民らの負担で西本願寺と本圀寺の間に,堀川通から大宮通まで道路を新たに開く工事が行われ,明治15(1882)年に竣工した。この碑は工事の完成を記念するものである。 Leer más.
左女牛井(醒ヶ井,さめがい)は京の名水の一つ。源頼義(988~1075)がこの地に築いた源氏六条堀川邸内の井戸であったと伝える。村田珠光(1423~1502)が将軍足利義政(1436~90)に献茶した際にこの水を汲み,千利休(1522~91)らも愛用したという。第二次大戦中,堀川通の拡幅により消滅した。この石標はその井戸跡を示すものである。 Leer más.